第1回・炎上PJから学ぶセミナー開催報告

先週20日の金曜日に「炎上プロジェクトから学ぶセミナー プロジェクトマネジメントの3つのポイント」の第1回を無事に開催しました。会場は京都駅前にあるキャンパスプラザ京都。京都にある大学関係者向けの施設なのですが、一般も利用できるとても便利な施設です。弊社と株式会社マネジメント総研と共同で企画し開催しました。

このセミナーはいわゆる講義形式の座学ではなく、参加者同士で議論をしながら進めていく演習形式をとっています。それは、何かを身に着けるには実際にやってみることが近道だと、私たちが考えているからです。

私もこの日だけは現在ご支援しているプロジェクトを離れて京都までやってきました。東京の朝はすでに暑かったですが、京都も真昼は暑かったですね。マネジメント総研の小山さんとランチを取り、そして会場に入って軽く事前の打ち合わせ。参加者の方が現れるまでは少し緊張しましたが、共催ということで不安も半分になりますね。

全体の進行としては、まず私たちが用意した炎上シナリオの読み合わせを行い、これから議論を進めるための土台を作りました。そして前半は炎上プロジェクトの着地方法を考えるための問いを提示し、それについて議論していただきました。後半は炎上プロジェクトに陥らない方法を考えるための問いを提示して、同様に議論していただきました。概ね私たちが想定していたような議論の方向に進んだ感じでした。

初めての試みで課題も様々見えてきましたが、参加者の方からは「他の会社の方々(自分とは違う役割の方々)の思いを聞くことができて良かった」「他社・違った役割の方達と、演習を通じてディスカッションする事により、理解していた認識が、より具体化した」といった声が寄せられました。

このセミナーはシリーズとしてしばらくは続けていくつもりですので、詳細が決まりましたらサイト上でご案内いたします。今のところ7月に東京で開催の予定です。


なぜ欧米の危機対応は迅速で、日本のそれは後手に回るのか

本日の日経新聞の9面「経営の視点」というコラムに日本と欧米の意思決定文化の違いについて興味深い内容が記されていたのでご紹介します。

大震災から2ヶ月になろうとしていますが、地震発生直後、特に福島第一原発の状況が判明してからの欧米各国の避難や撤退などの対応が素早かったのは記憶に新しいと思います。その時の日本人の反応といえば、大げさだとか薄情だとかいったネガティブなものが多かった印象があります。その温度差はどこからくるのでしょうか。

日本の場合は何か事が起こってから慌てて対応を決める。一方、欧米諸国の場合はそうではなく、予め定めておいた手順を粛々と忠実に実行する。――その差が決断のスピードの差だということです。

ではなぜ日本では、危機が起こったときの対応手順を予め定めないのでしょうか。

実はここにヒントがあります。日本では最悪の事態を想定すると、弱気だ、これまでの取組みに対して失礼だと責められる――そんなことは起こるはずがない、いや、起こってはならない、というわけです。そういえば、太平洋戦争中は日本が負けたときの事を考えるなどとんでもないという風潮があったことを思い出しました。「必勝」という精神論――最良の事態のみを考えるべきであって、最悪の事態を考えることは許されなかったのです。

どんな対策を施しても万全ということはありません。対策は費用がかかるためどこかで線を引かざるを得ません。しかし、想定には限りがなく、対策できなくても想定して先回りしておくことで、事が起こったときの被害を最小限に食い止めることができるのです。心を鬼にしてとことん最悪の事態を想定しましょう。


「想定外」は免罪符か

ちょっと前の話で恐縮ですが、5月2日付の日経新聞1面トップに「新しい日本へ」と題した連載の記事が掲載されました。この連載は大震災で失われたものを元に戻すのではなく、教訓を生かして新たな国を作り上げようという趣旨のようです。そこで採り上げられていた話題に関連して述べたいと思います。

よく、信頼性を損なう事件――例えば個人情報漏洩や集団食中毒など――が起こると「安全神話が崩壊した」などと報道されます。しかし、その【神話】という言葉のニュアンスには、「真実でない」「裏付けがない」といった性格が隠れているように思います。つまり「安全だと信じていたけれど、そうではなかった、裏切られた」という思い。幾ばくかの悔しさ、恨めしさがにじみ出ている表現です。

そしてまたよく関係者のコメントとして登場するのが「想定外」という言葉です。これは実に巧い言葉です。「想定していない、想定できなかったのだから自分には責任がない」というニュアンスを感じさせます。逆に言うと責任逃れのようにも聞こえます。何故なら本当はリスクについて警告する人はおり、それに対して耳を傾けず、対処もしなかったからです。その言い訳が通るのなら何も危機を想定しないことが許されてしまいます。

私はリスクマネジメントはリスクを直視することから始まるのだと考えています。いや、一般的にはそう教わると思います。先日の記事でも紹介した失敗学の畑村洋太郎さんが言うには、日本では「見たくないものは見ない。考えたくないことは考えない。」(冒頭の新聞記事引用)まさに安全神話はそうした国民性が創り出したものなのでしょう。どんなに「○○○は危険だからやめた方が良いよ」と言ったところで、煙たがられるのが落ちです。(日常のことを色々当てはめてみてください)

もちろん、脅威を回避するだけがリスクマネジメントではなく、対策を何もしない「受容」という考え方もあります。しかしそれは脅威が現実のものとなった際には「きちんと想定した上で何も対策をしないことにした」と言えなければなりません。そしてそうなった場合にどうするかということは最低でも考えておかなければならないのです。それは覚悟であって「想定外」とは全く違います。

「想定外」は免罪符にはなりえません。それは想定する能力の欠如を意味するか、免罪符にすがろうとする浅ましさを露呈するだけなのです。少なくとも、想定していなかったことを謝るべきであって、居直る態度はいただけません。